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zoom RSS 鎖国はいつから始まったのか

<<   作成日時 : 2011/09/26 12:57   >>

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幕末の始まりとして一般に認識されている事件といえば、1853年の黒船来航。
ペリー提督の要件はというと、
カイコクシテクダサーイ>щ(゜Д゜щ)

じゃあそもそも日本はいつから鎖国してたの?っていう話です。

※以下、大学の講義で聞いた話をもとに書きます。つまり受け売りです←


江戸時代は鎖国をしていた、となんとなく思っている人は多いと思います。
でも実は、鎖国が「祖法」だという意識は西暦1800年前後に成立したものなんです。
西暦1800年っていつ頃だよ、っていうと、ペリーが黒船を率いてくる50年くらい前です。
つまり、日本の近海に外国船が頻繁に出没しはじめた頃です。

鎖国が「祖法」だという意識、すなわち鎖国祖法観が成立したということが重要なポイントです。「祖法」というのは、家康のころから代々伝統的に守られてきた決まり事というような意味です。つまり、ずっと昔から鎖国は伝統としてあったんだという考え方が鎖国祖法観です。

1800年よりも前は、為政者が意識的に国を閉ざそうとしていたわけではなく、「海禁」体制の状態でした。
非常に厳格な管理のもとではありますが、四つの口(琉球・長崎・対馬・松前)を通して豊かな国際交流を行っていました。そう考えると確かに国をまるきり閉じていたわけではありませんが、それでも世界の国々と比べれば相対的に自足した状態だったといえます。たとえオランダや中国で何か起こっても、日本はそんなに影響を受けることはなく、揺るがない・・・日本という世界はそういう自己完結した世界になっていたのでした。

じゃあなんで鎖国祖法観が生まれたのかっていう話ですよね。
ここで登場するのが寛政の改革でおなじみの松平定信です。
この人の前に政治を主導していたのが田沼意次で、定信は意次と真逆の政治を展開していくわけですが…意次がロシアなど外国との通商も念頭に置いていたのに対して、定信は通商路線を否定します。もちろん意次の政治路線を否定するために鎖国を始めたってんじゃありませんけど、少しは関係してるかもしれないんで…一応。

さて、なぜここで松平定信に登場してもらったかといいますと、鎖国が祖法だと言い出したのは彼だからです。
彼が活躍した1800年前後というのは先ほど述べたように対外的な緊張が高まりつつある時期で、特にロシア問題がヒートアップしてきた頃でした。このロシア問題をどのように乗り切っていくのか・・・結果生まれたのが鎖国は祖法だという考えでした。

「生まれた」なんて書くと自然発生したみたいに聞こえちゃいますね。はっきり言うと、「祖法」を「捏造」したということです。「捏造」と表現すると悪いことみたいに感じちゃうかもしれませんが、私はこの捏造が悪いことだとは思っていません。まぁ要するに、あたかも昔からあったかのように鎖国という決まりをでっちあげたわけです。

日本に国交を求めに来たことで有名なラクスマンとレザノフっていますよね。彼らに対する幕府からの諭書には、鎖国が祖法だってことを書いているらしいです。
講義プリントよりラクスマン宛の例:
兼て通信なき異国の船、日本の地に来る時は或は召捕、又は海上にて打ち払うこと、いにしへより国法にして、今も其掟にたがふことなし」
↑このラクスマンへの諭書は1793年のもの。昔から打ち払う決まりになっていると書いていますが、異国船を打ち払う方針はたった2年前の1791年に決められたことでした


このように昔から外国とは付き合いをしない決まりになっていたとすることで、「別にロシアが嫌いなわけじゃないんですよ、昔からの決まりだからどこの国が来ても付き合わないんですよ」と言い訳をすることができ、幕府にかかる責任が軽くなるというわけです。

このようにして捻出した鎖国という「伝統」ですが、50年後の幕末頃になると人々は完全に「祖法」だと信じ込んでいたのだそうです。つまり江戸時代は鎖国をしていたという私たちの持つイメージも、もとをたどれば1800年頃の定信の「機転」に原因があると言えそうです。

以上、長くなりましたが鎖国のからくり(?)でした。
ちなみに、「鎖国」という言葉は志筑忠雄がケンペルの論文を『鎖国論』と訳して生まれたというのは有名な話ですが、『鎖国論』が出るのは1801年で今話していた時期と重なります。でもこの新しい言葉が日本人に定着するまでには時間がかかったみたいです。

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コメント(6件)

内 容 ニックネーム/日時
早速返事をいただき、恐縮しています。よくわかりました。実は私は7年前病気で仕事をリタイアし、3年前腫瘍が見つかり手術をして現在に至っています。今は車イス生活で、外出はできませんが、かなり回復して、パソコンを打てるまで回復して、3ヶ月前からブログを始めました。今後ともよろしく。
 なお、打ち間違えて神を東と打っちゃいました。ごめんなさいね。
kaesaru
2011/09/26 17:42
>kaesaruさん
こちらこそ、読んでくださってありがとうございました!
外出ができないというのは辛いですね。拙ブログでは京都をはじめとして私が訪れた各地の様子を史跡を中心に記事にしています。文章力がないのでうまく伝えられるかは分かりませんが、こんなものでも楽しんでいただければ幸いです。

私も訪問させていただきますので、よろしくお願いします^^

2011/09/27 00:21
お久しぶりです。
鎖国の話、面白いですね。
で、このドイツ人のケンペル(1651〜1716)ですが、1690〜1692年の短期間、長崎出島に滞在します。
彼の「日本誌」の原稿は実は数奇な運命をたどり、最後はイギリスの収集家のスローン卿の手に渡ります。
スローン卿の莫大な収集品をもとに大英博物館が設立されますが、ケンペルの未完の遺稿である「Heutiges Japan今日の日本」は英訳され「The History of Japan日本誌」として1727年にロンドンで出版されます。鎖国日本を紹介したこの本は各国語に訳され西欧で評判を呼びます。ペリーも来日前に研究しています。
2年間の滞在でケンペルがどのようにして情報を得たのか疑問でしたが、その協力者が240年ぶりに1980年代の終わりごろに発見されました。「長崎オランダ商館日誌」の1695年9月26日に、ある若者が通詞に採用されたとの記述があり、またケンペルの史料にもその名が発見されます。
協力者は、のちに蘭学の祖といわれる今村市兵衛英生でした。彼がケンペルの助手を務めていなければ、「日本誌」は存在しなかったのです。
ちなみに、今村英生の5代あとの子孫に、先日歴史秘話ヒストリアアで紹介された、地震の神様 今村明恒がいます。
寸心
2011/09/30 20:29
>寸心さん
詳しいお話ありがとうございます!
ケンペルについては人並みの知識しかなかったので、勉強になりました。蘭学の祖と地震の神様のつながりも興味深いですね。
今村英生など通詞を務めた方々はあまり大きく取り上げられることはありませんが、その功績はとても大きいと思います。それは今村英生が活躍した1600年代末だけではなく、どの時代においても言えることでしょう。
当時外国語を学ぶには現代以上に並々ならぬ努力が必要だったはずです。語学が苦手な私も見習わねばなりませんね…^^;

2011/10/02 00:55
間違いがありました。
今村明恒は英生から数えて6代目です。
うろ覚えで書いてしまいました。
申し訳ありません。
正確には以下を参照ください。
http://hananomichi.at.webry.info/201109/article_1.html
寸心
2011/10/02 20:24
言葉足らずで誤解をしそうなので追記します。
「長崎オランダ商館日誌」の1695年9月26日に、通詞に採用されたとの記述があり、またケンペルの史料にもその名が発見される。
ケンペルの長崎滞在期間と通詞採用の日が合いませんが、出島を職場とする家系に生まれた英生は幼少のころより商館付医師に奉公していたので、ケンペルが滞在した時はケンペルの助手になっていました。
寸心
2011/10/03 09:11

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