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鎖国はいつから始まったのか

2011/09/26 12:57
幕末の始まりとして一般に認識されている事件といえば、1853年の黒船来航。
ペリー提督の要件はというと、
カイコクシテクダサーイ>щ(゜Д゜щ)

じゃあそもそも日本はいつから鎖国してたの?っていう話です。

※以下、大学の講義で聞いた話をもとに書きます。つまり受け売りです←


江戸時代は鎖国をしていた、となんとなく思っている人は多いと思います。
でも実は、鎖国が「祖法」だという意識は西暦1800年前後に成立したものなんです。
西暦1800年っていつ頃だよ、っていうと、ペリーが黒船を率いてくる50年くらい前です。
つまり、日本の近海に外国船が頻繁に出没しはじめた頃です。

鎖国が「祖法」だという意識、すなわち鎖国祖法観が成立したということが重要なポイントです。「祖法」というのは、家康のころから代々伝統的に守られてきた決まり事というような意味です。つまり、ずっと昔から鎖国は伝統としてあったんだという考え方が鎖国祖法観です。

1800年よりも前は、為政者が意識的に国を閉ざそうとしていたわけではなく、「海禁」体制の状態でした。
非常に厳格な管理のもとではありますが、四つの口(琉球・長崎・対馬・松前)を通して豊かな国際交流を行っていました。そう考えると確かに国をまるきり閉じていたわけではありませんが、それでも世界の国々と比べれば相対的に自足した状態だったといえます。たとえオランダや中国で何か起こっても、日本はそんなに影響を受けることはなく、揺るがない・・・日本という世界はそういう自己完結した世界になっていたのでした。

じゃあなんで鎖国祖法観が生まれたのかっていう話ですよね。
ここで登場するのが寛政の改革でおなじみの松平定信です。
この人の前に政治を主導していたのが田沼意次で、定信は意次と真逆の政治を展開していくわけですが…意次がロシアなど外国との通商も念頭に置いていたのに対して、定信は通商路線を否定します。もちろん意次の政治路線を否定するために鎖国を始めたってんじゃありませんけど、少しは関係してるかもしれないんで…一応。

さて、なぜここで松平定信に登場してもらったかといいますと、鎖国が祖法だと言い出したのは彼だからです。
彼が活躍した1800年前後というのは先ほど述べたように対外的な緊張が高まりつつある時期で、特にロシア問題がヒートアップしてきた頃でした。このロシア問題をどのように乗り切っていくのか・・・結果生まれたのが鎖国は祖法だという考えでした。

「生まれた」なんて書くと自然発生したみたいに聞こえちゃいますね。はっきり言うと、「祖法」を「捏造」したということです。「捏造」と表現すると悪いことみたいに感じちゃうかもしれませんが、私はこの捏造が悪いことだとは思っていません。まぁ要するに、あたかも昔からあったかのように鎖国という決まりをでっちあげたわけです。

日本に国交を求めに来たことで有名なラクスマンとレザノフっていますよね。彼らに対する幕府からの諭書には、鎖国が祖法だってことを書いているらしいです。
講義プリントよりラクスマン宛の例:
兼て通信なき異国の船、日本の地に来る時は或は召捕、又は海上にて打ち払うこと、いにしへより国法にして、今も其掟にたがふことなし」
↑このラクスマンへの諭書は1793年のもの。昔から打ち払う決まりになっていると書いていますが、異国船を打ち払う方針はたった2年前の1791年に決められたことでした


このように昔から外国とは付き合いをしない決まりになっていたとすることで、「別にロシアが嫌いなわけじゃないんですよ、昔からの決まりだからどこの国が来ても付き合わないんですよ」と言い訳をすることができ、幕府にかかる責任が軽くなるというわけです。

このようにして捻出した鎖国という「伝統」ですが、50年後の幕末頃になると人々は完全に「祖法」だと信じ込んでいたのだそうです。つまり江戸時代は鎖国をしていたという私たちの持つイメージも、もとをたどれば1800年頃の定信の「機転」に原因があると言えそうです。

以上、長くなりましたが鎖国のからくり(?)でした。
ちなみに、「鎖国」という言葉は志筑忠雄がケンペルの論文を『鎖国論』と訳して生まれたというのは有名な話ですが、『鎖国論』が出るのは1801年で今話していた時期と重なります。でもこの新しい言葉が日本人に定着するまでには時間がかかったみたいです。
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長州兵になったつもりで進軍してみた(嘘)

2011/09/25 17:46
さっきの記事のまさかの続きです(・∀・)
いやむしろこっちのが幕末要素あるかも。

やっぱさァ…来るべきは河原町、木屋町なんだよ!!!!(心の叫び)
事件は西で起きているんじゃない!東で起きてるんだよ!!(大政奉還除く)

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そんな京都東部スキーな私は西の下宿に帰らねばならんのですよ…ちなみに朝5:30、ここは河原町三条さ☆

終バス逃した時点で歩く気満々になっていた私の中には今更始バスを待って帰るという選択肢はなかった\(^o^)/

それに…河原町三条ですよ?
ここまで来ておいて、すぐ目と鼻の先にある長州藩邸跡with桂小五郎を見ずに帰るなど…私にはできない!←

なので、非常に申し訳ないと思いつつもサークルのみなさんと別れて歩いて帰ることにしました。

もうね…京都市役所前の交差点通る時いつも顔がニヤけちゃうのです(変態
何度来ても飽きないわ…面影は何もないけどね!!

桂像を見た瞬間に眠気も疲れも吹っ飛びました☆(*>∀<*)←単純
もうこれで睡眠なしで1日頑張れるわって本気で思いました←

で、歩いて歩いて、京都御苑にたどり着きました。堺町御門です
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いつものことながら(←ここ重要) 境町御門から突破して、目指すは禁裏…ではなく蛤御門!←わかりやすすぎるコース

そして来るたびに毎度写真を撮らずにはいられない…なぜだろう…同じ門の写真ばかりたまってゆく…(^_^;)

御苑内から東山を臨むと、朝焼けが素晴らしく清々しい朝を迎えられました。
画像


私が愛して止まない蛤御門ktkr
画像

それからもひたすら歩き続け、途中色々新たな発見もして、京都を歩く醍醐味をあらためて噛みしめたのでした(^ω^)

なんだかんだ満喫しながら歩いたので1時間弱かかってしまいましたが、すごく楽しかったです。ヒールのせいで筋肉痛が悪化して未だに痛い(苦笑)
でも10時間歩きとおして帰宅した震災の日の辛さを思えば、そして昔はみな徒歩で移動したことを考えれば、こんなんは屁でもありませんww

やっぱ歩いて良かったー♪

おわり\(^o^)/

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昔も今も、木屋町は木屋町。高瀬川は高瀬川。

2011/09/25 17:09
昨日は河原町でサークルの飲み会がありました。
大丈夫ソフトドリンクしか飲んでないから問題ない(^ω^)

飲み会の後は色々あって夜の木屋町をぶらぶらしたのですが…やっぱ夜の木屋町こわいわー(^_^;)

木屋町界隈高瀬川が風情があって、初めて京都を旅行した時から好きな場所で、もちろん今でも好きな京都スポットの五本の指に入ります。

いいとこなんですよ、昼間は(・∀・)

夜は…うん。飲み屋街だから、ちょっとこわいかな☆

でも、それでも、幕末の頃も料亭やら飲み屋やらはこの界隈にあったわけで。
志士たちは、密議やらなんやらで足繁く通ってきてたわけですよ。

みんなここ通ったのかなぁ。
久坂も通ったかなぁ。

(*ノ∀ヽ)キャーーッ/////

きっと当時の雰囲気も似たり寄ったりだったに違いない!って思ったら、多少こわくてもこの街の雰囲気を感じたいって思えました。

ね、単純でしょ?(^q^)
でもね、たとえ面影がなくても同じ場所に立てるだけで幸せって思えちゃうのが幕女って人種なんですよ(^q^)

で、しばらく土佐藩邸跡の廃小学校の横の、高瀬川にかかってる橋とかにいました。龍馬が通ったかどうかは知りませんが。←扱いw

気づいたら終バスとっくになくて(そりゃそうだ1:00だものww)、私の性格上、

夜の京都歩きてぇぇぇ\(^o^)/

って歩いて帰る気満々でしたが、とりあえず先輩方についてってカラオケで夜を明かしました(*´∀`)♪

めっっっちゃ楽しかった!!!!(*ノ>∀<)ノ

そして5:30頃、再び路頭に迷う(笑)
てか結局私、歩く気満々だったんですよ(笑)

(まさかの)続く。
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ディスカバー!長州博(^q^)プレキャンw

2011/09/24 01:00

明治維新150周年を記念して行われる、
ディスカバー!長州博

明治維新150周年は2018年なわけですけど、前段階として
プレキャンペーンを平成23年7月〜12月
本キャンペーンを 平成24年3月〜8月

と設定して各種イベントを展開していくそうです。

あの……まだあと7年ありますよ?(;・∀・)

すごい力の入れようです。期待せずにはいられません(^q^)


ところでそのプレキャンペーンの中の1つ、例の松下村塾特別講座ですが、10/8(土)の回にまだ空きがあるようです。
みなさんチャンスですよー(*ノ>д<)ノ。+'゜

なんとあの松下村塾に入れるんですよ!!
昇天しちゃうかも(^q^)←
空きがあるっていうのが信じらんない!なんでやねんщ(゜Д゜щ)

詳しくは、ディスカバー!長州博のウェブサイト(http://www.oidemase.or.jp/meijiishin/index.html)をご覧ください(・∀・)
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歴史はこうして作られる(?)

2011/09/23 21:22

真実発掘ミステリー 歴史はこうして作られる」という番組が読売系でやってたので、ちょこっと見てみました。無論、ひやかしが目的ですが←

「最新の歴史学でこれまでの歴史の常識が覆る。歴史が作られる衝撃のカラクリを紐解いていく真実発掘ミステリー。あなたの歴史の常識が変わります。」

…というのが番組の主旨らしいです。

ってどこが最新の歴史学やねん!!!щ(゜Д゜щ)


私が番組をつけた時はちょうど坂本龍馬をやっていました。
龍馬の英雄伝説はどうやって生まれたかを紐解いていた訳ですが…

色々言っていましたが結局は、
明治期の坂崎紫瀾『汗血千里駒』
そして
高度経済成長期の司馬遼太郎『竜馬がゆく』
が伝説のおおもととなっているというのが結論のようです。

…つまらん(´−ω−`)←

なーんだ、やっぱそんだけか。
なにも常識が覆ってません先生!←


それにしても、再現PVはともかく、
マリーアントワネットのくだりのヤらせは酷すぎるww
とんだ茶番を見せられてしまいました(´・ω・`)萎〜


一般に信じられている人物像に対して、新たな視点を提起するという意味では、まぁまぁな番組だったかな、と思いますが…

やはり歴史バラエティは歴史バラエティであり、その枠を出ることはありませんね。今回の番組は露骨な“こじつけ”は少なかったものの、バラエティ番組としての演出や番組の構成は健在でした。
どうしたって、そのような番組で歴史の真実を伝えるなんてのは無理な話です(´`)

「真実発掘」なんて銘打ってるけど、結局はこういう番組によって歴史が「作られる」という部分もあるだろう、なんてことを思いながら見ました。歴史が「作られる」背景には、一見誰も信じないようなくだらない番組が、いつのまにか影響しているということもあると思うんです。


ひやかしで見るにしても、せめてもっと質のいい歴史番組ってできないのかなぁ(TωT)
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暴風域に入ったらしいです

2011/09/21 17:09

どうも、帰省中の神風川です。
今夜の夜行バスで京都に戻る予定なのですが……台風15号が関東に直☆撃 orz

どうやら私のいる所沢も暴風域に突入したようです。外ヤベェェェΣ(゜д゜;)
風、強っっΣ(゜д゜;)こわっっっΣ(゜д゜;)

夜行バス、ちゃんと運行するかなぁ…(-_-;);;;
やっぱ明日新幹線で帰ろうかなぁ…(*_*)

京都はもう雨は降ってないらしいですね。
どこでもドアがあったらいいのに←

もう少し様子を見ようと思います(´・ω・`)
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初めての発掘調査…その8(終)

2011/09/16 14:10
はじめに:調査内容を流出させないために遺跡の詳細はふせ、写真も載せません。発掘ってこんな事するんだ!っていうのを一般の方にも分かってもらえるようにというのがこの記事の主旨です。


今まで書いてきたことからも判るように、一口に発掘と言っても、色々な作業があるわけです。

私が参加した最後の5日間だけでも、ふるいがけや、層位図、平面図、土壌サンプル採取、写真記録、埋め戻し、土器洗い、現地説明会など様々な過程がありました。発掘調査自体は1ヶ月ありましたから、もっと沢山の作業行程があったはずです。

つまり、今回紹介した内容は発掘のほんの一部でしかありません。しかも土器洗いで終わりではなくて、この後には遺物整理という作業が待っています。これは数年かかることもある大変な作業で、集めてきた遺物たちを1つひとつ調べていくというものです。この遺物整理があって初めて新たな情報が得られるのです。掘り出しただけでは何も分からないのです。

一般に誤解されているのですが、発掘という言葉は掘ることだけを指すものではありません。掘る作業は発掘の中のほんの一部にすぎません。図面に記録したり埋め戻したりして、遺物整理まで終わってもまだ発掘は終わっていません。報告書を書いて提出するまでが発掘です。報告書を提出してようやく発掘が終わるのです。それまでの過程を全てひっくるめて発掘と言うのです。

私は最終段階の時に参加できて良かったなぁと思っています。もう一生のうちに発掘に携わることはないかもしれませんが、楽しかったし、経験しておいて本当に良かったです。近くで現地説明会があるようなら行ってみようかなと思います。

(終)
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初めての発掘調査…その7

2011/09/16 13:29
はじめに:調査内容を流出させないために遺跡の詳細はふせ、写真も載せません。発掘ってこんな事するんだ!っていうのを一般の方にも分かってもらえるようにというのがこの記事の主旨です。


最終日は、他の人たちはみんな埋め戻し(※6)をしに現場へ向かいましたが、私は内業にまわされました。内業は食事の用意や片付け、掃除などを行いますが、発掘に関する仕事で言うと土器洗いをやります。

土器洗いとは、読んで字の如く土器を洗う仕事です。発掘で掘り出された土器片たちはみな土まみれです。それを、ブラシに水をつけて落としていきます。

この時に注意しなければならないのは、土器に傷をつけないようにするという事です。あまり強くこすると傷がついたり欠けてしまったりするので、表面はこすらずに優しくたたくように汚れを落とします。側面はこすってもOkです。

また土器によっては水がつくと溶けだすものもあるので、注意しなければなりません。

このように土器洗いは気を遣わなければならないので大変ではありますが、でも土器を手にとって身近に観察できるので楽しいです。


午後は近くの資料館に行って展示を見て、夕方に帰りました。

(続く)


※6…当然といえば当然かもしれませんが、発掘で掘った穴は調査が終われば全てまた埋め戻します。一度掘ったところは土砂で埋め戻しても暫くすると沈んでしまうので、底に石や土嚢を敷いてから埋め戻したりするそうです
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初めての発掘調査…その6

2011/09/16 13:02
はじめに:調査内容を流出させないために遺跡の詳細はふせ、写真も載せません。発掘ってこんな事するんだ!っていうのを一般の方にも分かってもらえるようにというのがこの記事の主旨です。


4日目は初めて別のトレンチの配属になりました。その中の1つの穴(直径40cmくらい)を一人で担当することになりました。

といっても、まずは余分な石や砂を取り除いて穴の状態をキレイにして、
次に土の色が変わるまで(下の層が見えるまで)穴を掘り下げて、
最後に穴の形を整えるだけだったので、数時間で終わりました。


その後は同じトレンチ内の別の仕事にまわりました。先輩が3ヵ所掘ってくれるので、そのうち2ヵ所のふるいがけをし、あと1ヵ所はふるいをかけずに炭化物を採取しました。サラサラした砂で初日のふるいより全然マシでしたが、大きな礫(れき)が沢山混ざっていてその点は大変でした。

(続く)
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初めての発掘調査…その5

2011/09/16 12:11
はじめに:調査内容を流出させないために遺跡の詳細はふせ、写真も載せません。発掘ってこんな事するんだ!っていうのを一般の方にも分かってもらえるようにというのがこの記事の主旨です。


3日目の午後からは平面図の作成に取りかかりました。層位図は横から見た図でしたが、平面図はトレンチを上から見た図です。

これも層位図の時と原理は一緒で、x軸方向・y軸方向の距離を測りながら図面上に点をおとして描いていきます。


そして夕方からは、土器の取り出しにかかりました。大きめの土器片が側面にいくつか見えていたので、それを掘って取り出す作業です。先輩が作業にあたり、私はその様子を間近に見ることができました。近くから須恵器(※4)の欠片も出てきて、攪乱(※5)が起きていることがわかったりして、面白かったです。

(続く)


※4…須恵器(すえき)は、奈良時代以降に作られた朝鮮由来の土器。よく比べられるのが日本由来の土師器(はじき)。須恵器は灰色で、土師器は赤褐色。形にも特長があります

※5…普通は古い地層が下に・新しい地層が上に積もりますが、耕作や天災などによって地層の新旧がめちゃめちゃになっている場合があり、これを攪乱と言います。縄文土器と奈良以降の須恵器という何千年も時代の開きがある遺物が同じ層から見つかるというのは不自然なことで、地層に攪乱が起きていることがわかるのです
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初めての発掘調査…その4

2011/09/16 12:10
はじめに:調査内容を流出させないために遺跡の詳細はふせ、写真も載せません。発掘ってこんな事するんだ!っていうのを一般の方にも分かってもらえるようにというのがこの記事の主旨です。


3日目はまず最初に、2日目の層位図の続きで、土の色味を見ました。各層がどんな色をしているのかを記録していくのですが、2つの方法を用いて調べていきました。

1つめは、色土帳を用いる方法です。色土帳という色の見本を参照しながら、人が目で見て確認するというやり方です。

2つめは、色土計という機械を用いたやり方です。カメラみたいなものがついており、それを土に押しあててボタンを押すと画面に色情報が表れるというものです。

以上2つの方法で二重に調べました。
これでようやく層位図の完成です!


次に、土壌サンプルの採取を行いました。1つの層から二ヵ所ずつ、各200cc(合計400cc)採取しました。発掘に参加してから未だに土を掘るということをしてこなかったので(発掘終盤なので掘るよりも記録をつける段階になっているから)、やっと土を掘る大変さを体験できました


(続く)
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初めての発掘調査…その3

2011/09/16 11:29
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はじめに:調査内容を流出させないために遺跡の詳細はふせ、写真も載せません。発掘ってこんな事するんだ!っていうのを一般の方にも分かってもらえるようにというのがこの記事の主旨です。


私のトレンチの二日目の作業の中心は層位図の作成でしたが、午後に現地説明会があったため少し作業を中断したりしました。

まずは層位図とはなんぞや?って話ですね。簡単に言えば、地層の断面図です。理科の教科書とかで、断層とか習うときに見るような、ああいう感じの図です。

トレンチは掘り下げられているので、地面の下の様子がよく見えます。地層がどんな風になっているのかを、方眼紙に写し取っていくのがこの作業です。

層位図を描く前に必要なのは、分層という作業です。地層がどのように積もり・重なっているのかを見極めて、分かりやすいように線を引いていくのです。私なんかは素人ですし出来るわけがないので、3回生の先輩方が分層をし、私はその際に出る土を掃除する係をやりました。

分層が済んで初めて層位図に取りかかれます。どのように作成していくのかを言葉だけで説明するのは難しいのですが、簡単に言えば、x軸方向・y軸方向に距離を測って、それを縮小して図面におとしていくというだけの話です。私が数値を読み上げ、先輩が図を描きました。


現地説明会は、地元の人や考古関係者を中心に子供から大人まで約50人もの参加がありました。先生は20人くらいを予想していたらしいのですが、思った以上に人が来て良かったです(^ω^)
私的には小学生が何人も来てくれて驚きました。

現地説明会というのは、発掘がほぼ終わった頃に調査の成果を発表するために開きます。私が参加した5日間は本当に最終段階だったので、現地説明会にも参加できたのです。先輩方も質問に答えていました。小学生も、なんで?どうして?これ何?の盛りで、私も少し相手をしました(笑)

現地説明会は発掘の成果を一般の方に知ってもらう良い機会です。興味があれば、お近くで発掘調査があった際にでも是非参加してみて下さい(´∀`)


(続く)
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初めての発掘調査…その2

2011/09/16 10:44
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はじめに:調査内容を流出させないために遺跡の詳細はふせ、写真も載せません。発掘ってこんな事するんだ!っていうのを一般の方にも分かってもらえるようにというのがこの記事の主旨です。


まず初日は、レベル(※2)を用いてトレンチ内の各所の標高を調べることから始まりました。レベルの使い方は授業で習って何回か練習したことはありましたが、現場で実践するのは初めてでちょっと緊張しました。(レベルの詳しい使い方は以前紹介しているのでそちらをご覧ください)

それから後は、私は一日中ふるいがけをやっていました。トレンチ内で先輩方が深掘りをし、その掘った土を私たちがふるいにかけるのです。ふるいにかけながら、遺物(※3)がないか探していきます。

もう少し詳しくふるいがけについて説明します。合計で何リットルふるいにかけたのかというのも記録しなければなりません。後で、リットルあたりの遺物の割合を数値化する(遺物密度という)ためです。この研究手法は古墳の調査などではよく使われますが、縄文の発掘調査ではあまり用いられたことがないそうで、新しい試みなのだと先生は仰っていました。

なので毎度ふるい台帳に記録しながら、10リットルずつふるいにかけていきました。他のトレンチ同様にサラサラした砂ならふるいも楽なのですが、私がいたトレンチの土は粘土質でちっともふるいの網の目を通らず、指でこしながらの作業だったので本当に苦労しました。炎天下の中ひたすらふるい続け、今思うと初日の作業が一番大変だったように思います。

(続く)


※2…レベルは標高を測るのに使用する機械です。よく道路工事の前とかにおじさんたちが棒を立てて覗いている、アレです
(レベルの詳しい使い方はこちら

※3…遺物とは、土器や石器や炭化物など、遺跡から発見される、人が暮らしていたことを示す証拠のこと
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初めての発掘調査…その1

2011/09/16 09:51
はじめに:調査内容を流出させないために遺跡の詳細はふせ、写真も載せません。発掘ってこんな事するんだ!っていうのを一般の方にも分かってもらえるようにというのがこの記事の主旨です。


今回の発掘調査は8月の半ばから1ヶ月にわたって行われてきました。その中で私が参加したのは一番最後の5日間です。つまり現地調査の最終段階・仕上げ段階であり、大変貴重な体験ができました。

今回調査したのは、滋賀県内にある縄文晩期の遺跡です。以前甕棺(※1)が出土しており、今回はその続きの調査ということになります。

遺跡はいくつかの区画に分けて掘られていて、その区画の1つひとつをトレンチと呼びます。私ははじめの3日間は同じトレンチで作業をし、4日目は別のトレンチに配置され、5日目は内業という屋内作業の担当になりました。

…と、ここまでは概要を述べてみました。
それでは具体的な作業内容を見てみましょう(^ω^)

(続く)


※1…遺体を入れて埋葬するための甕(縄文土器)のことを言う。甕棺墓という墓制に用いられた
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台風の被害は文化財にも・・・。

2011/09/08 00:39

どうも御無沙汰しております、神風川です。
すっかり放置したまんま9月に入ってしまいました…ゴメンナサイ;;;

言い訳っつーのは見苦しいからしたくないけど、
一体てめぇは今まで何をやってたんだっつー話をすると、

8月末はサークルの合宿で中山道の旅に出ておりまして、
帰ってきた途端に台風が京都をかすめていきやがりまして、
そして気が付いたらレポートやらなんやらを片付けねばならない時期にさしかかっておりました。
まぁ要するにここ数日はレポートとの格闘の日々…ということにしておいてください←

十津川の報道で皆さんご存知のように、
紀伊半島は台風で最悪の被害を被りました。
(十津川と聞くと龍馬暗殺を思い出すんだよね…というのは戯言ですが)

京都は(保育園の屋根がめくれた以外は)そんなに被害は大きくありませんでしたが…二条城の障壁画が気がかりでなりません。

文化庁の7日の発表では、8府県で国宝3件・重文10件を含む36件の文化財に被害があったとのこと。
6日の発表では6府県で24件の文化財(内、国宝2件)とのことだったので、一気に数が増えてショックでなりません。被害の全容が明らかになりつつある時期ですから、これからまた数が増えるかもしれません。

この連日の発表に上がっている被害を受けた国宝の1つが二条城の障壁画なのです。
二の丸御殿大広間の障壁画が2面、破損したそうです。
破損がどの程度なのか存じていませんが、檜皮葺の屋根が約6平方メートル吹き飛んだ(滋賀・善水寺)、「御旅所」が河原ごと消失した(和歌山・熊野速水大社(世界遺産の一部))などの他の文化財に比べれば、被害は軽い方なのかもしれません。

でも文化財は人類共有の財産なのですから、被害の大小に関わらず重要視すべき問題だと言えると思います。


さて、長州旅の続きも載せないままブログ更新がおろそかになってしまっていますが、
正直なところを申しますと、ちょっと今は忙しくてなかなか手がまわりません。
まだ夏休みは3週間弱ありますが、10日からは大学の授業の一環で泊りがけで遺跡の発掘調査にも行かねばなりませんし…。

なので、のんびり構えて、気長に更新を待っていていただけたらなと思います(笑)
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虹色雨玉 2011年9月のブログ記事/BIGLOBEウェブリブログ
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